NICOとスピッツと私と

NICOが先か、Spitzが先か。

NXAが見せた「肯定」と「否定」

NXAは凄くいいツアーだ。

回を重ねるごとに、

正確にアップデートされている。

 

Fighting NICOが怒りの顔をした不安

だったとしたら、

NXAは、不安の顔をした怒り

なのだと思う。

 

NICO Touches the Walls

常にあらゆる二面性と対峙してきた。

「内と外」「理想と現実」

「過去と未来」「具現と抽象」

極端に遠かったり、

すぐ隣り合わせだったりする「それ」を

落とし込むためにとった

ファイティングポーズ。

私はFighting NICOが大好きだった。

たったワンフレーズで

「闇」から「光」に変えた姿に震えた。

胸が焦げる音、

目がつぶれそうな光、

残酷な美。

これがNICO Touches the Wallsだと

結論付けてしまいたいほど。

 

なのに、今はNAを掛けて、

ツアーを回っている。

私が「これぞ」と思った彼らの姿は

すでに一部破壊され、

進化、再生し始めている。

 

NXA、戸惑う機会も与えられない隙の無さ。

はしゃぎすぎてしまうのだ。

今までにないほどに。

いいのか、こんなに楽しくて。

大丈夫なのかこれから、と不安になる。

 

私にとってNICOはずっと

不安を投影する壁だったから。

NXA、破壊と再生のためのステージ。

2時間、私の目の前で渦巻いているのは、

「完成された闇」と「生きた屍」なのか。

 

「自由に踊って」

「名前を呼びたかったら呼んで」

「いいプレイには反応して」

「歌いたかったら歌えばいい」

 

こういうことは今まで

そんなに言葉にされることが無かったし、

それを良しとする

バンドなのか否かもわからなかった。

 

私は、ニワカ~で起こるあの手拍子が嫌い。

することが無いからしているみたいで、

みんながするからするみたいで嫌だった。

THE BUNGY天地ガエシのように、

アーティスト側から

煽られているのは好きだけど。

 

「自由に」というのは、

「手をたたいてもいい」という肯定であり、

「本当にあなたがそうしたいのなら」

という否定でもある。

 

すべての悩めるお客さんを

救ったのではないかな。

少なくとも私は気持ちが楽になったかな。

 

体に入り込んだ感覚そのままに、

動いてほしいんだろう。

「VIBRIO VULNIFICUS」の症状も、

FUNNY KILLER」の副作用は人それぞれだ。

 

 

バンドが、曲が、ファンが

作り上げてきた「カタチ」を一度破壊して、

今一度問いたいのだろう。

NICO Touches the Walls」のセンスを。

 

なんて“捻り”の効いたツアーなんだNXA

でも、考え方はいたってシンプル。

「ひねくれることにまっすぐであること」

 

ほらまた、真逆のものを二つ並べている。

 

あなたたちは本当に、本当に、

センスがいいよ。