NICOとスピッツと私と

NICOが先か、Spitzが先か。

歌ウサギは「愛とセックス」の歌だと思う

私、「歌ウサギ」が好きすぎで

この曲についてずっと考えていました。

 

収まりがつかないので

ここに書き記しておこうと思います笑

 

もちろん個人の見解です。

想像する余白があるって本当に素晴らしい。

 

 

 

こんな気持ちを抱えたまんまでも何故か僕たちは

ウサギみたいに弾んで

 

→「ウサギ」が何かのメタファーだとしたら「弾んで」が気になる

ただ単純に「恋愛関係にある二人」を「ウサギ」と呼ぶだけなら

頭に「歌」を付けなくてもいいんじゃないかと。

 

 

輝いたのは清々しい堕落 君と繋いだから

 

→「清々しい堕落」堕落が清々しいって・・・。

「君と繋いだ」ことが例え堕落でも「清々しい」と言っているのなら

なおさら「弾んで」が気になる。

「こっそり二人裸で跳ね」てたこともあったし。

ただやっぱり、「恋愛関係にある二人」を「ウサギ」と呼ぶだけなら

頭に「歌」を付けなくてもいいんじゃないかと思うんだよ・・・。

 

 

フタが閉まらなくて 溢れそうだよ

タマシイ色の水 君と海になる

 

→「タマシイ」出てきちゃったよ。

タマシイ色の水が溢れて溢れて君と海になる・・・。

海というのは海なのか。

私はスーパー深読みをして「海月」まで発展して

「ぬるい海に溶ける月 絡まるタコの足」

まで思いを巡らせちゃったんだけど

やっぱりそういうことなのかな。

だとしたら久しぶりに生々しい。

世界観でいえば「プール」だ。大好きだ。

 

 

「何かを探して何処かへ行こう」とか

そんなどうでもいい歌ではなく

君の耳たぶに触れた感動だけを歌い続ける

 

→実にマサムネさんらしい表現。

ここに深い意味が有ろうが、そのまんまだろうが

どっちゃでもいいわい。好きだ。

 

 

敬意とか勇気とか生きる意味とか

叫べるほど偉くもなく

さっき君がくれた言葉を食べて歌い続ける

 

→生きる意味とか言っちゃって急にスケールがでかくなって不安!

さっきまで君と僕の目先のことしか見えて無かったのに。

と思ったんですけど、この突然のスケールアップが

「さっき君がくれた言葉を食べて歌い続ける」という

自分の生きていくことへの「ささやかさ」を

出すための演出だったのかと解釈。

ここで「歌い続ける」と出てきた事によって

やはり「ウサギ」が何なのか分からなくなる。

 

そもそもウサギって歌わないし。

コオロギとか、鳥とか、鳴く生き物をタイトルに持ってきてるなら

頭に「歌」がついててもそんなに気にならないし

まあやっぱり「恋愛関係にある二人のメタファーなんだろうな」

てなところに着地できたような気がするんだけど。

 

「歌」にどんな意味を持たせようとしているのか・・・。

そこが説明を付けられないかぎり、

「世界観プール感」に今ひとつ説得力が足りない。

 

 

君と僕はとりあえず「ウサギ」なんだろうな。

二人で跳ねる、弾むからウサギにしたのか、

白くてフワフワしてる感じが無垢そうで可愛かったのか。

でも、「歌う」のは僕の方だけで、

自分が歌う意義っていうのは、

敬意とか勇気とか生きる意味とかそんな大儀ではなくて、

君に触れるという可愛らしく、ささやかなアクションによって

満たされる自分の感情なんだろう。多分。

 

自分が歌う理由は「愛とセックスだけ」とかつて言っていたけど

ここまで何気ない表現で露骨に歌詞にしたのは久しぶりでは。

こういう感性が衰えないのは本当に凄いな。

 

あくまで持論だけど、

やっぱり結婚してないことがこの感性を保ってるのかな。

 

結婚した人が書く歌詞とかメロディってどうしても

穏やかなものになってしまうというか

平和すぎるというか生々しさに欠けるというか

 

私はそう思ってしまうことがとても多いので、

マサムネさんが未婚である(特定の相手が居たとしても)という状態が

いつまでもこんな歌詞を書ける理由なのかな、なんて。

 

 

めちゃめちゃ勝手なこと言ってますけどね。

作風に影響があるかは別として、

マサムネさんには幸せになって欲しいので、

もしその気があるのなら結婚してほしいなって思います。

 

 

とにかく歌ウサギ、

私には「愛とセックス」の歌にしか聞こえません笑

 

プールとかに近いと思う。大好きです。

 

以上。